英国在住の保育士でライターの著者、ブレイディみかこ氏については以前からうっすらと名前だけ知っている程度でした。彼女がどんな人かを知ったのは、TBSラジオの番組「荻上チキ Session-22」に本人が登場したから。

福岡の貧しい家庭で育ち、高校は進学校へ進みながら大学へは行かず、上京。その後イギリスへ渡る……。そんな彼女の生い立ちは他のサイトでも読めますが、彼女が「ロック少女だった」ということはラジオのトークで強く印象に残りました。
1970年代。日本には学年にひとりくらいロック少女がいたのです。彼女たちは強い個性もち、ロック少年など歯牙にもかけず、正しいロック道を邁進していました。男子は馬鹿だからTAB譜を眺めながらギターを弾くのが精一杯ですが、ロック好きの女子は鋭く本質を見ていたような気がします。ぼくには解散後のザ・ビートルズの偉大さを理解するのは不可能でしたが、中一の時に「ミスター・ムーンライトがいい」といっていた子がいたもんなぁ。
さて、本書ではそんな彼女が中学生の息子を通してイギリスの(少しだけ日本の)社会について観察し、それを描写していきます。意外に自説を述べるか所などは少なく、彼女と息子の会話の中にむしろ息子の意見がちょいちょい紹介されている感じなのですが、それでもいつの間にか彼女のペースにはまり、彼女の視線でイギリスの社会を眺め、おそらく彼女の言わんとすることに同意せざるを得ない……というパワフルな文章。よく練られています。
中学校の廊下にセックス・ピストルズかよ
冒頭付近でいきなりつかまれたのは「中学校の廊下にセックス・ピストルズかよ」という節。彼女の息子が通うことになった「元底辺中学校(と彼女が称している学校)」では、四十代の若い校長が熱意を持って改革に取り組んでいます。その学校の廊下に、ブリティッシュ・ロックの名盤が飾られていたのです。
ザ・シャドウズ、ジ・アニマルズ、ザ・フー。名だたるブリティッシュ・ロックの名盤アルバムのジャケットが両側の壁にずらりと貼られていたのだ。何よりこの並べ方に信頼がおけるのはロニー・ドネガンから始まっている点だ。ビートルズ、ザ・ローリング・ストーンズ、ピンク・フロイド、デヴィッド・ボウイ、レッド・ツェッペリン、T・レックス……なぜこんなものたちが学校の廊下に。左右からこちらを見下ろしている名盤の数々を通り過ぎると、ああやっぱり、ついに見えてきた。黄色にピンクのあの毒々しい色彩。『勝手にしやがれ』のジャケットが。中学校の廊下にセックス・ピストルズかよ。
ロニー・ドネガンといえば、ロックというよりその源流的なスキッフルで一世を風靡した人(だったはず)。ザ・ビートルズも最初期にはスキッフルバンドだったという説もあり、やっぱりこの著者はブリティッシュ・ロックの流れをしっかり把握しているのだなと思わされます。
そんな風に、ぐいっと彼女の世界に引き込まれた後は、イギリスの階級社会の厳しさ、移民と差別の問題、緊縮財政によってさらに貧富の差が広がる現状などなどを、彼女とその息子のふたつの視点を通して目の当たりにさせられます。スリリングで夢中で読める良書です。
もちろんイギリス社会の問題点をえぐる……なんていうことはテーマではなく、イギリスの英知も紹介するし、日本での残念な経験も紹介しています。ただ彼女は英国を、あるいは日本の現在を描写しているのです。
親父と息子と3人で座敷席に座って食事を楽しんでいると、スーツ姿の中年男性が、部下とおぼしき若い男性を2人従えて入ってきた。 (中略)
息子と私が英語で喋っていると、上司の男性がちらちらとこちらを見ているのを感じた。
「YOUは何しに日本へ?」
そのうち、上司の男性が唐突にこちらを振り返って話しかけてきた。それが日本のテレビ番組のタイトルだということは知っていたし、実際、帰省中に何度か見たこともあったので、
「帰省です。両親がこの近くに住んでいるので」 とわたしは答えた。
(中略)
「ほーん」 と言って、中年男性はとろんとした目つきでうちの息子を眺めまわしていた。
「日本語はできんとね、その子は」 と彼が聞いてきたので、わたしは答えた。
「喋れないんですよ。日本語をしっかり教えなかったのはわたしの怠慢なんですが、うちの子は英語オンリーです」
その酔客は今や椅子の背に両腕をだらんとかけて、全面的に体をこちらに向けていた。
「なんで教えんとね。英語を教えて日本語を教えんというのは、日本に対して失礼やろうもん」 と強い調子で彼は言った。
(中略)
「いいや。日本に誇りを持つ日本人ならそれじゃいかん。あんたも日本人なんやけん、日本語を教えて、日本人の心を教えんと、日本の母とは呼べんな」
そういえば最近、日本ではこの手合いが増えたなぁと思いながら読みました。いやしかしここだけ読むと日本の現状を批判しているようにも思えますが、そうではありません。彼女は、彼女の目に映る世界を、彼女という媒体を通して描写しているのです。
だから彼女の文章には希望があり、この後の世界についてもう少し見続けてみよう(それも機会があるなら彼女とともに)、と思えるのです。